瑞雲萬歳山 大寧護国禅寺

曹洞宗
瑞雲萬歳山 大寧護国禅寺

応永17(1410)年大内家の支族鷲頭わしのうず弘忠公が、石屋真梁せきおくしんりょう禅師を開山として迎え開創した。
石屋禅師は、18才で中国に渡り修行を積むこと20年。活達磨いきだるまと称賛され、帰国後、当時、南北朝にわかれて葛藤していた皇室を、後小松天皇の勅命によって合一する働きを 元中9年(1392年)に成し遂げ、皇室に絶大な信頼を得た。その学徳兼備の名声と遺勲を礎として、6世紀になんなんとする寺史を有し、かつては全国に六百数十ヶ寺に及ぶ末寺をもつ僧録そうろく寺として栄え、 その壮麗美観は「西の高野」と称えられ、毛利家の香華院、又萩藩毛利家の上級家臣もこぞって境内に墓碑を建立した。

大本山總持寺御直末
瑞雲萬歳山ずいうんばんぜいさん 大寧護国禅寺たいねいごこくぜんじ

 
放生池の楓
本堂
夕暮れ
通  称 大寧寺たいねいじ
開  創 応永十七年(1410年)室町時代
開  山 石屋真梁せきおくしんりょう 禅師
開  基 長門守護代鷲頭弘忠わしのうずひろただ

主な出来事

石屋真梁禅師
山門跡
大内義隆公
1410年  応永十七年 石屋真梁禅師により開創
1427年 応永三十四年 当寺三世定庵殊禅じょうあんしゅぜん和尚の威徳を慕って長門一の宮の住吉大明神が大寧寺で参禅の折、得戒を果たされた報恩の温泉が湧出した。この温泉が、現在の「長門湯本温泉」となる。
1466年   寛政七年 足利幕府の管領であった上杉憲実うえすぎのりざねは、幕府内の政争に疲れ、諸国行脚の後、 享徳元年(1457年)当寺四世竹居正猷ちっきょしょうゆう和尚の弟子となり、 安居参禅の晩年を送り、寛政七年(1466年)に入寂。墓は史跡墓地群の中にある。
1551年  天文二十年 連綿として栄えた大内家当主大内義隆公は、突如重臣陶隆房すえたかふさの謀反により山口を追われ、 大内氏の香華寺である大寧寺に逃れ十三世異雪慶殊いせつけい じゅ和尚に示戒を請い、重臣と共に自刃。大内家は三十一代にして断絶した。 主従の墓は裏山、遊仙窟ゆうせんくつに眠る。
1961年 昭和三十六年 愛知県妙厳寺の守護神豊川稲荷が勧請祭祀された。御祭神は仏法を護持する叱枳尼真天だきにしんてんという仏さまで福徳成就の大請願をもつ。 明治になって神仏分離政策で妙厳寺と豊川稲荷を分離しようとする権力に直面した時、当寺四十五世簣運泰成きうんたいじょう和尚が三条実美卿を説得した因縁によって結ばれている。